学術界はこれまでの研究不正や業績誇称で何を学んだのか?

2010年のアニリール・セルカンに関わる研究不正のことでわれわれは何を学んだのでしょうか?最近のSTAP細胞論文のことで思い出します。

4年前に記事「知を窃(ぬす)んで地に落とす」を書きました。この「セルカン事件」では、東京大学に対する申立に対して、大学による調査委員会によって当人の学位論文に大量の剽窃等のあることが確認されて、東京大学創立以来、初めての学位取消が行われました。また、当該研究科において学位審査に関わった教員の処分とともに、再発防止策がとられたということです。しかし、この事件はこうした狭義の「研究不正」ということだけではありませんでした。

調査委員会の報告によれば、平成18年度科学研究費補助金実績報告書に掲載された研究業績の論文一覧に記載された25編の論文の内、20編の存在が確認できなかったとあります。また、当時、インターネット上では経歴上の疑念も数多く指摘されていました。論文中の剽窃や業績論文の偽装については、現在、STAP細胞の件で問題点の指摘をしている匿名の11jigen氏によるものも多かったと記憶しています。

この事件では、論文の捏造や剽窃といった「研究不正」に加えて、このような業績誇称や経歴詐称によって、東京大学大学院工学系研究科助教の職に就いていたという問題があったのです。もちろん、これは教員を採用するという人事に係る組織の問題点であるということですが、「研究不正」にはこのようなことも同時に起こりえるといえるでしょう。むしろ、自らの能力を過大に見せて学術界での評価を高めようとして、論文の捏造に手を染めたり、業績を誇称したりするのではないでしょうか。

上に触れたように、最近の研究論文に関する不正の指摘についても、4年前にセルカン事件で目の当たりにした集合知による論文の検証が大きな役割を果たしています。研究者個人を貶めるのが目的ではないでしょう。すべてがそうだとはいえないでしょうが、科学に対する研究者の奢りを戒めるものだと捉えることができるのではないでしょうか。われわれはこうして行われる学術成果への検証(といってよいのかどうか?)のあることを学びました。

その一方で、科学者の言動については、何を学んだのでしょうか。最近、科学者から話題となっている研究者に厳しい指摘や叱責がなされています。学術界を代表するという立場からでしょうが、科学者としての自らの学術上の業績やそれに関わる自らの行動に責任を果たした上でなければ、学術界が空虚なメッセージを社会に伝えることになってしまいます。学術界で、業績誇称や経歴詐称によって「研究者」を作り出していた反省はどうなのかということです。「1,000件もの学術論文(scientific paper)を公表したというのは誇称ではないか」と問われて、「雑誌に寄稿したものも専門的に書いているのでおかしくない」と強弁する「科学者」が、論文の内容に関わる不正の疑念に対して何かを言っても、社会は離れるだけでしょう。8ヶ月ほど前に「科学者倫理に思うこと」を書いてからも、「研究不正」や「学術不正」に関わることを考えることが多くなりました。

「研究不正」ということで、論文の捏造や剽窃、また、研究費の不正使用が指摘されますが、われわれはその根底にある業績の誇称や経歴の詐称といった、科学者個人の「誠実さ」に反する行為にも目を向ける必要があると思います。

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